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愛情セミナーの理論背景


1 心理学と宗教
2 心理学と愛
3 宗教と愛
4 人格鍛錬の場  

 

 

 

1 心理学と宗教

歴史上の人物で、もっとも愛について多くを語っているのは、イエス・キリストです。
キリストは私たちに教えています。最も重要なのは神を愛し、人を愛する事だと。聖書には信仰よりも愛が偉大だと書かれているのです。キリストの語った教えとは、どのように私たちが愛し合えるのか、その道なのです。
世界で最も有名なカウンセラーである、カール・ロジャースは、キリスト教の伝道者でした。また、心理学者やカウンセラーの中には、イエス・キリストが理想的なカウンセラーだと言う人もいます。このように心理学と愛の教えとしてのキリスト教には密接な関係がある事がわかります。

心理学は人間の心を研究し、対人関係のあり方において、より良い状態を追求しています。心理学は人間の持っている問題をいかにして解決するか、そしてより幸福に生きられるかを研究する学問です。対人関係の問題解決のためにどのような精神状態になれば良いかを研究しています。
本来の宗教の開祖たちも、ある意味で同じ目的を持っていました。いかにして人間が幸福になれるのか。その道を追求し、発見し、教えたのが、釈迦やイエスたちです。しかも、その道とは、どのような精神であれば良いのかを説きました。
心理学者たちも宗教の開祖たちも、どちらも人間の幸福を追求し、人間の心について考察しました。ですから、人間の幸福について、心理学的アプローチと宗教的アプローチは融合する事が可能なのです。可能なだけではなく、相互補完的とも言えるでしょう。

リベラ愛情セミナーの特徴は、まさにこの点にあります。長年、カウンセラーとしても、またキリスト教の牧師としても活動してきた経験と知識を融合させ、愛情について考察した結果、このセミナーを創作するに至りました。
私にとって、キリストの教えは宇宙的な深さを持っているので、一生をかけて追求するものです。その教えの目標は真実の愛です。ですから、愛について教えてくれるキリストは愛情セミナーに無くてはならない存在です。しかし、特定の宗教に偏るのではなく、愛について教えてくれるいろいろな宗教も、重要な位置を占めています。
心を学問的に研究している心理学は、セミナーの基礎的部分です。しかし、人間の生き方を考えるならば、単に心だけに焦点を当てるのではなく、人間の行動や習慣についても考察する必要があります。そこで、民族学や文化人類学なども、よい参考になります。多くの宗教や学問が、真実の愛を追究するための、有効な手段なのです。


2 心理学と愛

心理学における当然の対象として、愛情を基礎とするカップル関係があります。夫婦療法や夫婦カウンセリング、それに恋愛心理学と呼ばれる分野が創設されています。また、欧米ではかなり以前からセックスセラピーも行われるようになりました。
ここで、愛情セミナーと関係のある心理学の方法論を簡単にご紹介しましょう。大きく分類して4つのアプローチがあります。

1)実証的アプローチ

人間の行動パターンや心理パターンを実験や統計によって知ることができます。どんな時に、恋に落ちやすいのか。どんな人が好まれるかなどを、実際に数字で確認する方法です。
一つの有名な実験を紹介しましょう。
大きな渓谷にかかる大つり橋の中央で実験者の女性が立っている。渡ってきた男性に声をかける。
「自然景観と創造性の関係について心理学の研究をしているので協力していただけませんか?」
そして絵を見せて物語を作ってもらう。最後に自分の電話番号を書いたメモを渡して言う。
「もしこの研究に興味があれば説明しますので、都合の良い時に電話をください。」同様の実験を固定橋の上でも行う。その結果、つり橋の上で出会った男性からの電話のほうが多かった。
この実験結果から、恋心の意外な真実が分かるのです。

2)精神分析的アプローチ

無意識の精神世界を強調するアプローチです。
精神障害の治療や対人関係の正常化のためにトラウマを解消する事を重要視する考え方とも言えるでしょう。幼少期における親子関係に精神的歪みの原因を求めるのです。
例えば、私たちは、恋するときそのパートナーを無意識的に自分の親と同じような人、または、正反対の人を選びやすい傾向があります。また、両親が喧嘩ばかりしている家庭で育つと、自分も同じようにパートナーと喧嘩ばかりするか、正反対に喧嘩をしないように、一生懸命に自分を抑えてしまうか、どちらかの傾向が現れます。このように、大人になってからの愛情のあり方を左右しているのが、無意識の中に書き込まれた幼児期のプログラムです。それを発見して、気づかせる事で、より良い愛情関係を作れるように、自己変革を促します。

3)行動療法的アプローチ

現実に観察出来る行動に焦点をあてます。
悩みや問題の原因とその解決法を、現在の環境にあると考え、その環境をどのように変化させるかを考えます。
例えば、カップル関係で起こる問題の多くは、報酬と犠牲のバランスだと見ることができます。
夫婦で会話を楽しみたい妻。しかし夫は帰りがいつも遅い。夫は妻が家事をちゃんとこなしているので、不満は無い。この場合、妻は報酬が少なく、犠牲が多い。夫は報酬が多く、犠牲が少ない。このアンバランスが夫婦関係を悪化させ、他の不満と融合して多くの喧嘩の種になると見るのです。
ですから、問題の原因となっている現実の行動を変化させて、二人の心のエネルギーバランスをとる事を目指します。

4)システム論的アプローチ

カップルの問題をそれぞれの個人に見つけるのではなく、カップルのシステムに見出そうとするアプローチです。
例えば、あるカップルで、男性がとても怒りっぽいとします。
怒りの感情をぶつけられた女性が引きこもりの反応をする。すると、男性の怒りの感情が増幅する。防衛反応として、引きこもりはさらにひどくなる。男性の怒りが暴発し、暴力となる。
誰でも怒りの感情を持つ事はあります。その原因を男性個人に追究するのではなく、その怒りがどのようにカップルの中で、連鎖するかを考えます。
このように見ると、どちらか一方でも、自分の反応を変化させれば、関係が大きく変わる事がわかります。関係が変われば、もう一人も変わらなければなりません。相手に変わる事を要求する必要はありません。もし、一方だけが変わったならば、二人のカップルとしての精神的エネルギーバランスが崩れ、カップルシステムを失う結果になるからです。

以上、カップル関係についての主要な4つのアプローチによって、多くの理論が展開されています。また、セラピストたちはこれらを組み合わせながらカウンセリングを行っています。


3 宗教と愛

現代の多くの人は、恋愛を自分の人生における重要な出来事だと考えています。愛を人生に充実感を与えてくれるものとして求めています。そのような愛を真剣に求めるならば、愛が人生に大きな意味を与えてくれるものとなってきます。そして、愛が人生に意味を持たないときに、喪失感と共に人生の大きな問題となってくるのです。失恋をして自分の命を絶つ人さえいるのは、いかに愛が人生にとって大きなものであるかを示しています。
愛は自分が生きている意味、存在している理由を提供してくれます。そのような偉大な愛を探求する時、私たちは心理学の範疇を超えなくてはなりません。人生を探求する事、それは人類史の古代から宗教の役割でした。
愛は客観的ではなく、本来は主観的なものです。心理学は愛を客観的に扱います。しかし、本来の宗教はその個人の主観的な心の境地に問いかけます。その意味でも、偉大な愛へと私たちを導くのは、宗教的なアプローチなのです。
AさんがBさんをどのように愛しているかを、客観的に見る事はできます。しかし、どのくらい愛しているか、自分の人生でどのくらい重要なのか等は、本来主観的な次元なのです。それは他の人が判断したり、判定したりできないものです。
祈りの無い宗教はありません。祈りとは、主観による神と自分との係わり合いです。自分本来の愛を見つめ、気づき、育てるのも、祈りと同様に内観によるのです。

ここで、一つ注意する点があります。それは、宗教の二面性です。愛を育てる面と、逆に愛を抑圧する側面が宗教にはあります。
キリスト教徒になれば、豊かな愛情関係のある夫婦生活が約束されるのでしょうか。答えは残念ながらNOです。イエス・キリストの純粋な教えと、キリスト教会の教義とは別物です。深い愛には自由な精神が必要です。キリストは私たちをこの世界の束縛から解放し、自由を得させると言われました。
しかし、社会秩序を維持する役目を担った組織としての教会は、愛を人間存在の重要な位置に置けませんでした。人間によって作られたキリスト教の教義は、人間生活を規定し、私たちの心を束縛する傾向があります。他の宗教も同様の傾向があるようです。宗教教義は画一的に人々をコントロールしようとする傾向があります。宗教の持つ拘束性は真実の愛を見失わせる働きをしてしまいます。集団としての宗教団体に所属しても、自分の中に愛を豊かにするわけではありません。

 重要なのは、宗教の教えの中にある愛の奥義を、自分自身が見出す事です。そして自分が成長するための指針とした時に、宗教が愛を育てる役にたつのです。


1)キリスト教と愛

ここで、聖書からの引用を一つご紹介します。

 たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。

 たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。

 全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。



まず、始めに注目したいのは、この箇所です。
「たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。」
キリスト教を宗教と考えると、人々に信仰を持つ事をもっとも勧めていると考えられます。しかし、キリストの教えは宗教の範疇ではないとも言えます。聖書がはっきりと証言しているように、豊かな愛を育てる事は、強い信仰を持つ事よりも重要なのです。ですから、キリスト教の本質は、愛を追求する現代の私たちのニーズに答えるものなのです。

貧しい人を援助する行為は道徳的に良い事です。もちろん家族を養う事も、財産の使い方として、この範疇に入るでしょう。ここにも愛はあります。信仰を持つ事で、愛を育てる事もできます。神秘や知識、つまり、宗教や心理学に通じていても、愛情が豊かになる道があります。さらに、最近流行のスピリチュアル系に近いのでしょうか。天使たちからのメッセージを取り次いで、心を癒すのも、愛の行為とも言えるでしょう。しかし、これらには、愛が伴わない事もあります。
天使のメッセージを語りながら、本人の心は孤独な人もいます。カウンセラーでも、クライエントの問題解決はしても、愛情関係にはまったく関わらないひとが多いようです。信仰を持っていても、人を非難し自分の体裁ばかり気にするのが現実です。援助活動しながら、自分の利益を追求する、そんな人もいるのです。それを指摘しているのが、この聖書の言葉です。

この愛情セミナーの目標は、この点を見逃さないようにしなければなりません。つまり、何か不思議な世界からの語り掛けを聞くわけではありません。単に愛情についての知識を得ることが目標ではありません。信仰に勧誘する事はまったく論外です。表面的な言動を正して、夫婦円満を演出しては逆効果です。
実際に愛し合うこと。心の底から自然に愛情あふれる関係を作ってゆけるようになることです。

2)神話や宗教と愛

愛について多くを語る聖書ですが、他の神話や宗教からも、愛について多くを学ぶ事ができます。ここでは、簡単にご紹介しましょう。

日本人にもなじみのあるギリシャ神話を考えてみてください。そこに描かれているのは、多くの愛と嫉妬の物語です。神々の愛憎劇は、人間の愛情の育て方の素晴らしい教訓なのです。
日本人にはキューピッドの名前で知られている神。愛の天使と誤解されやすいのですが、彼は天使ではなく、神様です。キューピッドはギリシャ神話では、別の名前があります。じつはエロスと言います。日本人にはエッチなイメージの単語ですが、これが本名なのです。このエロス神も恋をします。相手は人間で、その女性の名前はプシュケーです。プシュケーとは、日本語では魂と翻訳されます。これだけ考えても、何か深い意味がありそうですね。
エロスとプシュケーの詳しい物語とその解説は、愛情セミナーで。

日本神話にも夫婦の物語がいくつかあり、参考になります。
童話のように語られる白兎と大国主の物語。しかし、大国主は日本全国に多くの妻を持ち、多くの子どもをつくる浮気者でもある。当時の権力者が一夫多妻であり、正妻のスセリビメは心得があったはず。しかし彼女が嫉妬をはじめる原因がある。始めて嫉妬したのは八上比売。この物語を解釈すれば、女性が許せる浮気と許せない浮気の区別が見えてきます。

イスラム教は、男尊女卑で、女性が常に虐げられているようなイメージを持つ人さえいます。しかし、私は大きな誤解だと思っています。
現代の私たちも参考にすると良い決まりもあります。ハマルと呼ばれ、結婚の時、さらに離婚の場合に、男性から女性に支払われるお金を決める制度です。夫婦であっても、財産は別々に持つのです。
日本には、愛が無くても経済的理由だけで結婚生活を続けてしまう女性が多くいます。ハマルは実践的な愛の制度と言えるでしょう。
現代でも一夫多妻で4人まで妻を持てますが、これですら、女性のための重要な目的から決められました。ベールをかぶる事にも、愛情との密接な関係があります。

 仏教の基本的な教えでは、男女間の愛情はあまり肯定的に扱われていません。大きな煩悩の一つだからです。仏教での愛は慈悲の心と言われます。これについての解説は、ここでは長くなりすぎますので、セミナーで。
一つ興味深いのは、愛染明王の信仰です。恋愛したい、セックスしたいなどの煩悩は断ち切ることができないので、むしろそれを奨励して、さらに向上心へと向かわせ、仏道にもはげませようと導いてくれるのです。愛染明王自身も性的興奮を表現するために、全身が赤くなっています。宗教的境地と性欲とは、切り離さなくても良いと教えてくれています。

世界最古の信仰と言われるタントラ教はとても興味深い宗教です。その寺院は「セックステンプル」と言われています。性行為によって宇宙の真理を悟ることを目的としています。古代の人は、悟りの境地は最高のセックスからと、考えたのでしょうか。私が最も興味をひかれたのは、宗教の始まりが男女の愛とセックスの追及だったという事です。
人間理性と本能の統一的追及です。
愛情セミナーも同様です。最高のセックスは、深遠な愛から得られ、深遠な愛の追求は、人生最高の幸福へと導くと考えています。人生最高の幸福とは、人間存在の真理に至る事です。


4 人格鍛錬の場

宗教や哲学全般の目的は人間幸福の追求です。人間にとっての幸福とは何でしょうか。それは個人や時代、文化によって異なるかもしれません。しかし、一つの共通項目は、より高次元の自分になる事です。そのために、修道院で聖書を学び黙想し、寺で修行し座禅を組んだりするわけです。このような修行などは確かに私たちを成長させるでしょう。
しかし、より良い人格、より高次元の人格形成において、現代の宗教的方法論は過去の遺物となりつつあります。教会に行って牧師の話を聞いて、それで良し、とするのは、すでに古い価値観と言わなければなりません。多くの人の興味の対象から外れてきています。なぜなら、現代は私たちの日常生活が大きく変革しているからです。それに伴って精神的基盤も大きく変わってきたのです。

現代人の精神的基盤とは何でしょうか。これも人によって異なるかもしれません。しかし、多くの人々に共通した認識として、「愛」と言う事ができるでしょう。財産をどんなに蓄えても、愛のない生活は空しいものだと、誰もが考えています。そして愛の基本はカップルの愛です。
つまり、多くの人々が求めているのは、過去の宗教が提供していた単に高次元の人格を求める道ではありません。愛情豊かな人格を求める事が、現代の私たちには必要なのです。

愛する人を失ったとき、誰でも耐え難い悲しみや苦しみを経験します。理屈ではなく、どんな人でも愛を失うと同じ感情がわきあがってきます。
ですから、人間は愛する人と一緒にいる事、そして愛する人ともっと深く愛し合うことが、幸福だと感じられるように遺伝子レベルでプログラムされていると考える事が出ます。

多くの宗教は、私たちを幸福に導くために、私たちの人格をより高いレベルに成長させるための教えです。つまり、豊かな愛情はより高いレベルの人格によるわけです。その点では、宗教は愛情を豊かにする事にとても貢献します。しかし、修道院やお寺や、山奥での一人の修行では、愛情は育ちません。なぜなら、愛情は常に、相互関係にあるからです。宗教集団の中でも、自己成長と愛情の育成は難しいものです。なぜなら、表面的で「事なかれ主義」の人間関係を作りやすいからです。宗教集団での修養も、山奥や修道院での修行は、現実のカップル関係に直面するよりも簡単な事かもしれません。
別の視点から考えると、カップルが愛し合うことほど難しい課題は他に無いかもしれません。つまり、現実のカップル関係こそ、最も現代の私たちに身近で、愛情を育てるのに適した道場だと考える事ができるのです。
カップル関係を真剣に見つめ、豊かな愛情を育てる事こそ、直接的に私たちの人格成長に影響するのは、当然のことです。

シングルの方へ
カップル関係を持っていない人が、人格の成長ができないわけではありません。愛情セミナーは、カップル関係に焦点を当てていますが、それは広く解釈する事で、親子関係や友人知人との対人関係とも対応しています。ですから愛情セミナーを通して、自分を成長させつつ、人生で出会う人々との愛を豊かにしてゆく事ができるのです。いや、むしろ、カップル関係の愛情に留まるのではなく、全ての出会いの中での豊かな愛を育てる事こそ、当セミナーの本当の目的なのです。



 

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